「邪宗門」を鑑賞Part.2
実験演劇集団風蝕異人街による公演「邪宗門」を鑑賞。凄いという言葉を安易に使いたくないのですが、語彙力と知識に乏しい分「凄い」の一言でしか表せられない。とにかく凄く圧倒された。前売完売のためコンカリーニョにて24日まで https://t.co/dXIXkIGt1b #邪宗門
— Palism (@usadou) 2017年2月21日
「凄い」の一言でしか表せられないなどと格好つけてツイートした上に「凄い」というキーワードについて真面目ぶった記事を書くという行為をしたわけだが、はっきり言ってしまえば、頭の中が追いついていなかった。ただそれだけである。
どうも自分の中にもやもやした部分が残っており、24日の金曜に札幌演劇シーズンの「リピーター割引」を利用し再鑑賞。
2回目は初回に比べて大まかな流れを把握しているので、「このシーンが後のあのシーンに至ってくるのか」と圧倒されてわからなかった部分も、ストンと自分の中に入っていった。
もやもやした部分のなかで1番引っかかっていたのが、ラストのシーン。本当にこの物語を作っているのは誰か。なぜ引っかかっていたのだろう。そう思いながら2回目を見ていた。
ここからは私の個人的な考えになるのだが、これは演劇・物語であって演劇・物語ではないんだ。この物語であった出来事は現実世界である自分の中でも生きている、言葉や想像力・そして一人であったとしても、人間ではなくその時の出来事や環境によって操られているのだ。その中Palism・ささきぱる・(本名)のそれぞれをその時々で演ぜよ。気を抜いている暇はない。自分がもやもやしていたもの、「凄い」としか言えなかったもの。それは自身の内面への「喝」だったんだ。
ここまで書くのに1時間を要しており、どのように締めたらわからないでいる。高校時代「オチがないのかよ」とよく言われたことを思い出したのはまた別の話。